米原市〜湖北余呉湖周回78kmツーリング報告書

おじサイクル企画
日 時:2006/06/04(日)

天 気:入梅前の快晴

参加者:私G、HI氏、Tatsu氏

目的地:米原市山東庁舎〜湖北周回、山内一豊の足跡検証
【コース概要】
6:00拙宅〜一宮西IC〜関ヶ原IC〜米原市山東庁舎駐車〜石田町〜浅井町〜木之本〜余呉湖〜虎姫町唐国〜長浜市〜山東庁舎(総走行距離:78km)


【プロアトラスSV転載】

 

入梅前のこの時期の日曜日の快晴となれば、じっとしていられず、HI氏の急な参加に山路からコース変更して、脚の状態を気にしながらの湖北一帯散策で、今回は、米原市山東庁舎からの出発です。
  
小谷寺に立寄ります。いつ来ても参拝者無くひっそりとしています。管理人のお母さんが、『上がってお参りして下さい』と申されたので、遠慮なく上がらせていただき、『浅井長政』に関わる仏像を拝見させて頂きました。その後、小谷城址へ行き、脚を故障中のHI氏から『小谷山の山頂城址までまで上ろうか』と言うので、『えっ!』と胸中不安でしたが、彼が言うならということで、坂道を上り城址へ!【正直、一度行ってみたかったところでした】眼下には、『浅井長政』が見ていたであろう近江の裾野が広がっています。
小谷寺 小谷山から 小谷城址案内板

途中、黄色の花が色濃く咲いていました。

 
木之本町・北国街道へと移動します。
木之本宿は、道幅も広くとってあり、昔の風情を残しながら、ひっそりとしたたたずまいで、かつて交通の要所とは思えないほど静かな街並みです。NHK大河ドラマ『功名が辻』の5/28放送分の、千代が夫一豊の為に用立てした金十両で購入した名馬の馬市場『馬宿 平四郎』です。司馬遼太郎の作品の中では、近江設定だそうですが、実際には、この木之本町での出来事のようです。

北国街道街並み  

せっかく木之本町へ来たのですから、浄信寺庭園を観て参りました。私共らしからぬ行動でしたが、ま〜良しとして、北国街道を北へ進みます。


 

 

↓余呉湖周回します。湖面を渡る風が爽やかで、のんびり走るには、とても良い場所です。
  
↓山内一豊の初領地の『唐国』です。(東浅井郡虎姫町)
プロアトラスSV転載

一豊は、天正元年(1573)7月から信長による越前朝倉攻めに従軍し、8月14日、近江と越前の国境刀根坂で、敵将・三段崎勘右衛門(三須崎勘右衛門)と死闘を繰り広げました。勘右衛門は、朝倉軍でも剛勇の誉れ高く、強弓の使い手であったとされ、一豊は左のまなじりから右の奥歯にかけて矢が貫通するという大けがを負いながらもこれにひるまず、勘右衛門を討ち取りました。一豊の家臣・五藤為浄がかけつけ、顔に刺さった矢を抜こうとしましたが、一豊が「顔を踏みつけて抜け」と命じ、為浄が草履を脱ごうとしたところ、一豊が「そのまま踏め」と命令したので、草履のまま顔を踏みつけ矢を抜き取ったといいます。後日、このことが信長の耳に入ると、信長は一豊の家臣に薬を与え、一豊の看病を怠りなく続けるよう厳命したと伝えられています。一豊は、この功により、湖北三郡の領主となった秀吉から、近江唐国(現在;滋賀県東浅井郡虎姫町大字唐国)400石の知行を与えられました。近江唐国は、南に姉川を抱き、北東に小谷山・虎御前山を望み、秀吉の領地・長浜とはわずか数キロを隔てた位置にあります。また北国街道が通り北国への出入地点として重要な場所でもありました。その押さえとして一豊が選ばれたのは、その信頼がいかに厚かったかが伺えます。待望の領主となった一豊。武将としての出発点となったのが、ここ虎姫の地でした。湖北一帯は、米の産地でもあることでしょうが、(減反政策の一旦でしょうか)麦も広大な土地に栽培されていました。
一面麦畑  

長浜城  

 
今回のツーリングはHI氏の脚の状態が完治していないという理由で、山路から急きょ平地へと負担無いコースに変更しましたが、何か目的をということで、山内一豊の北近江での足跡をたどってみました。近江一帯は、中山道と北国街道が交差する重要な位置に当り、大河ドラマ『功名が辻』では中心的な一帯で、まさしく観光ポイントとなり、長浜城では、多くの方々が訪れておられました。ブームなのですね!6/11放送では、いよいよ『本能寺の変』です。   『時は今 天(あめ)が下知る 五月哉』  歴史を垣間見ながら自転車散策もけっこう面白いものです。





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