関ケ原合戦場見学ride

おじサイクル企画
おじサイクル
日 時 160813(土)
天 気 曇天から酷暑の日差し
参加者 私G、おさむさん、asanoさん、翔一郎
目的地 大垣ひまわりと関ケ原合戦場見学76.7km
8/13 土曜日 盆休み利用して大垣ひまわりと関ケ原合戦場見学rideと称して、早朝05:45、私、asanoさん、おさむさんの3名で、一宮市東五城の某所集合し、20km先の大垣ひまわり会場へと走ります。
大垣ひまわり会場で泡太楼さん、関ケ原合戦場で翔一郎と合流という段取りで一日が始まりました。
朝のうちは曇天で、割と涼しく、快適に走ることができ、安八の『しあわせの泉』で水補給し、橋を渡ればひまわり会場です。

  

満開時期は終わったようですが、まだまだ咲き誇っています。
新幹線とのtimingを合わせて撮影です。
手持ちのカメラより、スマホの方が綺麗に撮影できるんですよね。

泡太楼氏との待ち合わせが噛み合わず、次への移動時間になり、彼に何度も電話コールしてみますが応答なし。
止むを得ず、泡太楼氏を見捨てて、関ケ原へと移動開始します。
(後から電話連絡あり、日程を間違えていたとの連絡あり)

   

関ヶ原町へ到着し、先に、石田三成陣の笹尾山に登ってから、涼しい歴史民族資料館へと入るつもりでしたが、駅前の観光案内所の方が、『先に歴史民族資料館へ行かれて、地形ジオラマ見て、陣の配置を確認してから、笹尾山へ行ってください』と丁寧な説明があったので、そのように指示に従うことに。

 

先ずは『東首塚』へ。
(↓ネットより引用)
慶長5年(1600年)9月15日に起こった関ヶ原の戦いは「天下の分け目の戦い」と呼ばれる合戦である。関ヶ原の地に布陣した兵数は、東西両軍を合わせて約17万人。わずか半日の戦闘であったが、約8000人の死者が出たと言われている。
 関ヶ原の勝者である徳川家康は現地で首実検をおこなった後、多くの遺体の処理を、この地を治める竹中重門に供養料千石を与えて命じた。そこで造られたのが東首塚と西首塚であるとされる。
 東首塚のある場所には、家康が首実検した際に首級の汚れを落としたという首洗いの井戸があり、また昭和6年(1931年)に史跡に指定されて後に移築された護国院大日堂と唐門がある。対して西首塚は胴塚とも呼ばれ、あるいは東西両軍の武将に分けて葬られた首塚であるとも言われる(実際のところは、東西どちらの兵であったか分からない者が大半であったと伝えられる)。どちらの首塚もよく整備されており、今なお供養が丁重に執り行われていることが分かる。
 関ヶ原は多数の死者が出た場所であり、この2つの首塚以外にも遺体を埋めた場所が複数あると推測される。実際、明治になって敷設された東海道線の工事の際に、多数の白骨が掘り出されたという記録も残されている。

asano氏曰く、『よ〜く考えれば、惨忍で、恐ろしい話ですよね』 『捕った敵方大将の首を洗って、検首するんですから』と。

  

関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻) 関ケ原町歴史民族資料館より引用
歴史民俗資料館入館料350円で、涼しいところで、しばし、歴史のお勉強です。
ここは撮影禁止ですから、ネットから引用です。
西軍76,000、東軍66,000 恐るべし戦いですよね。

松尾山に陣を構えた『小早川秀秋』は当時19歳
15,000もの大軍を待機させていた小早川秀秋は、どちらともない煮え切らない態度に、家康から
(催促の)鉄砲を撃ち込まれ、西軍を裏切り、東軍の勝利へと裏切り行為で導く。
更に、小早川の裏切りをうすうす感じていた大谷吉継
(石田三成の盟友)は、松尾山の北側麓に陣を構える、という構図も感動ものです。

 

歴史民俗資料館→決戦場→石田三成陣の笹尾山へと移動です。
石田三成陣の前には、『島 左近氏』が出迎えてくれています。
このめちゃ暑い中、甲冑姿でのお出迎えに、大変ご苦労様です。
島 清興(しま きよおき)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。筒井氏、石田三成の家臣。
通称は左近で、一般には島 左近(しま さこん)の名で広く知られる。

 

石田三成陣の笹尾山です。(↓画像はネットより引用)位置

  

歴民のジオラマを見学してからの笹尾山ですから、(汗だくで上って)広がる眼下に、なるほどとうなずけます。
北国街道近くに陣を構えての、徳川との戦い、負けも想定して、現在の滋賀県への敗退路を視野に入れての笹尾山布陣。
学べば学ぶほど、奥深く、めちゃ興味が深まります。
自転車始めて13年経ちますが、歴民への入館も初めてなら、笹尾山も初めて。
土産に買ったコップも『大一大万大吉』の石田三成コップ
(このコップは行き付けの夜遊び店にマイコップとして、コソ〜リと置くことにします)
まだまだ奥が深く、この先も関ヶ原の戦いを視野に入れて走るのも良し、でしょうね。

『大一大万大吉』一人が万民のために、万民は一人のために尽くせば、天下の人々は幸福(吉)になれる という意味だそうです。

 

翔一郎と合流後、(休憩後)関ヶ原町を後にして、羽島市→中野の渡船場→愛知県へと帰ってきます。
夏場、昼からの日差しは痛いように刺さり、更に、お盆休みということもあり、一般車の多さには驚くばかりです。
早く帰宅して、シャワー浴びて、グビッ、グビッ、プワーといきたいところです。

  

  

【往路別行動の翔一郎撮影画像】
若者は、おじさんたちとは別行動で関ヶ原町での合流。
その前に、垂井町を自分なりに歴史探索してきたようです。
やっとtension上がり、走りも元に戻ったようで、哲っちゃん、おさむ氏の走りにぴったりと付いて行き、鳥越林道の際の無様な走りは、今回は見られませんでした。
(親バカで申し訳ありません)

   

たかが77km、されど内容濃く走れて、充実した一日でした。
参加の皆さん、お疲れ様でした。


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