関ヶ原古戦場記念館

おじサイクル企画
おじサイクル
日 時 201108(日)
天 気 日射しあって暖かい一日
参加者 私G、おさむさん、ジョナさん、mayumiさん
目的地 関ヶ原古戦場記念館開館入館
関ヶ原古戦場記念館が、令和2年10月21日オープンし、入館を待ち望んだ私共は、来場タイミングを計って、運良く11/8 12:30〜 4名ネット予約が取れたのでGO。

歴史好きな4名での行動。
尾張一宮07:13に乗車し、関ヶ原駅へと。
下呂市金山町在住のジョナさんにも8時駅集合をお願いし、一日の始まりです。

  

ジョナ氏、最初は嫌々生返事をして、『12:30に間に合うように行きます』と愛想の無い返事。
内心、ムッときましたが、ここは自分の気持ちを抑えて、彼を解きほぐし、8時集合へと。
来れば、来るで、興奮し、笑顔満面。
(だったら、最初から素直に来いよ!)
彼のブログでは、今日の移動を『ツーリング』と言いふらし、大げさに記載してあった。
何がツーリングだよ、関ヶ原町内の移動に自転車使うだけなのに。

そんなこんなで、早朝、誰も通らない道で、わがまま記念撮影。

 

時節柄寒いかな、と思った天気が、暖かく好天になりそうな気配。
山も良い感じで色付いています。
先ずは、決戦の場、石田三成陣跡、笹尾山へと。

 

 

↓島津義弘陣跡

  

↓宇喜田秀家→福島正則

  

今日の午前の目的地、大谷吉継陣跡、墓
今夏に訪れようとした時は、蚊の襲撃で断念し、今回こそは、と気合い入れての訪問です。
階段を上がり、警報器のある踏切を渡り、ちょっとの登山です。
大谷吉継陣跡からは、小早川秀秋陣の松尾山がよく見えます。
小早川秀秋の寝返り・裏切りを既に見込んでの布陣であったのでしょう。

  

  

 

私共の他に熱心な若者が一人で感慨深げに居られ、
私:『どこから来られましたか』と尋ねると、
彼:『福岡県から飛行機で昨日来て、名古屋で一泊し、朝一でここに来ました』
私:『朝一でなぜ大谷吉継なんですか?』
彼:『大谷が好きで、ここに訪れるのが8割の目的でした』 と、応えられました。更に、『男気が良いんですよ』とも。
彼:『2016年大河ドラマ“真田丸”で片岡愛之助さん演じる大谷吉継が良かったのですよ』とも。
関ヶ原駅からここまでには、かなり歩かなければなりません。
熱心な方に感動を頂きました。
まさに、『熱男』氏でした。


 

↓昼食場所に予定していた、レストラン伊吹さんの店敷地内の看板です。
家紋が分からず、帰宅後は、歴男おさむさん、ジョナさんに教えてもらい、名を入れるのに悪戦苦闘でした(笑)

さあ、12:30予約をしておりましたので、入館です。
入館料500円
この建物、建築費52億円

さすがとしか言えない空間です。
5分間放映シアターは、立って見る形式で、デジタル映像で素晴らしかったです。
次は、8分間シアターへと移動です。
ここは戦場臨場感たっぷりで、座席が振動し、風が動き、音も振動します。
是非、予約して、来場ください。
(予約が無いと、入館はできません)

 

 

 

↓福岡県の彼も、うおさだ社長も、大谷吉継にめちゃ熱かったので、帰宅後、復習です。
【大谷吉継】
慶長3年(1598年)6月に秀吉の死去し、石田三成徳川家康との対立が厳しくなる。
吉継は家康に接近し、政権内の混乱収拾に当たった。


慶長5年(1600年)、家康が会津上杉景勝討伐に出陣。
吉継は討伐軍に合流する前に石田邸を訪れ、双方を仲裁しようとしたが、逆に三成から挙兵の計画を持ちかけられた。
これに対し吉継は決起は無謀だと反対したが、親友の頼みを受け、敗戦覚悟で協力。
総大将に
毛利輝元の擁立を提案し、西軍首脳として挙兵に加わった。

関ヶ原の戦いでは(病で目を患っていたため)輿に乗って参戦し、東軍藤堂高虎と戦ったが、小早川秀秋らの裏切り(諸説あり、秀秋の記事参照)により自軍は壊滅し、圧倒的な兵力差を前に奮戦した末に自害した。
小早川の東軍寝返りについては事前に予測していたとされており、山を下ってくる小早川の大軍を他の将と挟撃して撃破する予定だったが、その備えていた諸将まで裏切ったことで失敗してしまったという。

その首級は介錯を務めた家臣・湯浅隆貞の懸命の工作により敵軍の手に渡ることのないように隠蔽されたとされ、関ヶ原には二人の墓が並んで祀られている。

金のみで人は動くにあらず

大谷吉継は戦国の世にあって、まれに見る義人として知られます。
石田三成とともに、豊臣秀吉に重く用いられた大名で、数々の武功をあげています。
先見の明もあり秀吉の死後、徳川家康に近づきますが、石田三成が徳川家康との戦いを決心します。
三成は親友の吉継に戦に味方してくれるよう呼びかけました。
家康とも懇意だった吉継でしたので、家康と戦いたくはなかったと思いますが、吉継はこう答えています。
「あなたは利を使うことに鋭く、それがゆえ太閤に重宝された。
だが戦で人間が利のみで動くと思ったら、それは間違いだ。
合戦の時、人はその大将の人望と能力で動く。
あなたはどれも家康に遠く及ぶまい。
しかしそれでも戦をするというのなら、お味方します」
勝ち目のない戦とは知っていても三成とともに戦う決意をします。
関ヶ原の戦いでは輿に乗って軍を指揮し、大軍を率いる小早川秀秋の寝返りを予期しこれに対応するなど、目覚ましい活躍をみせますが、秀秋の監視役であったはずの脇坂隊・赤座隊・小川隊・朽木隊の四隊が便乗して東軍に寝返り、吉継の部隊は支え切れず壊滅状態になりました。
敗北を悟った吉継は「わしの顔は病で醜くなっておる。首は土深く埋めてくれ。」と部下に言い残し自らの命を絶ったそうです。
敗戦覚悟で三成の味方をすることを決めた吉継は、金銭や恩賞で動く人物ではありませでした。友情に殉じた義の生き方は男性の心をとらえて離しません。

(↑ネットより引用)

【ジョナさんコメント】
ありがとうございました
行って良かったよ
親分の博識ぶりにまた おどろかされました。
(無事 帰宅しましたか?)
やはり、こもっててはイケナイと思いました〜ッ
mayumiさんじゃないけど、
10km」くらいのが ちょうどイイです。
(あ、んなコト言ってるとチョン切られるか)
今日は本当にありがとうございました。

【mayumiさんコメント】
私は50キロ選手でよろしくお願いします
mayumi

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